介護人間力研修

「ありがとう」がエンドレス


   「ありがとう」がエンドレス
>
>
> 行動しないで悩んでいるのと、
>
> 行動しながら悩んでいるのとは全然違うんだよね。
>
> 行動しながら悩んでいるときは前向きだよね。
>
> 悩みが課題になっちゃう。
>
>
>
> いやなことがあっても幸せ気分でいられる工夫をすること。
>
> 人はそれぞれに工夫して、気分を落ち込ませない
>
> 努力をしているんだよ。
>
> 子どもは、ほったらかしておいても幸せ気分に戻れるの。
>
> 大人になるとぐちぐち考えてしまうから、
>
> なかなか幸せ気分に戻れない。
>
> だから、幸せになるノウハウ本が売れるのね。
>
>
>
> 幸せになるのに、ノウハウはいらない。
>
> あのね「ありがとう」って言えばいいの

>
> 「友達がいてありがとう」
>
> 「今日も元気でありがとう」
>
> 「寝坊ができてありがとう」。
>
> 「ありがとう」がエンドレス。
>
> それが幸せってこと。
>
>
>
> 「感謝の気持ちがわいてこないときはどうしたらいいの?」
>
> 「あのね、ありがとうって言葉は、
>
>  この言葉が誕生して以来それを言い続けてきた人たち
>
>  の思いが込められているのね。
>
>  言葉が『ありがとう』の歴史をもっているの。
>
>  だから、言えばいいの。
>
>  言えば自動的に感謝しちゃう言葉なのよ」
>
>
> --------------------
> 『「ありがとう」がエンドレス』
> ISBN978-4-7949-6879-1
> 1200円+税
> 著:田口ランディ
> 版:晶文社

「 ハッとさせられる瞬間 」

みなさん、こんにちは。

今日は『致知』2016年9月号
の記事のとても心に残った
一節がありましたので、是非
皆さんにもご紹介させて
頂きたいとおもいます。


連載「人生を照らす言葉」から

鈴木 秀子
(国際コミュニオン学会名誉会長)


───────────────────

例えば、電車に乗っていて
座席の前にお年寄りが立ち、
席を譲ろうか、でも少し気恥ずかしいな、
という思いでいる時、
隣の席でスマートフォンに
熱中していた若者が
すっくと立って席を譲る、
といった様子を
目にしたことはありませんか。


また、誰もが見て見ぬ振りをする
道端の空き缶やペットボトルを
さりげなく拾って、
近くのゴミ箱に入れる人がいます。

考えてみたら、
どちらも些細な善行にすぎません。

人として当然の行いです。


しかし、いざやろうと思って、

なかなか行動に移せないということも

また確かだろうと思うのです。

それを目にした人たちは、
誰しもハッとさせられるはずです。
そして自分たちの普段の生き方を
反省させられるに違いありません。

私たちは生きる中で、
いろいろな欲望に振り回されたり、
利害関係、周囲の評判に
とらわれたりすることがあります。


正しいと思う簡単なことでも、
周囲の目を気にしていてなかなか
実践でません。

私たちの本心はそれがいけないことだ
と知っていますから、そこで「自分は
なんという駄目な人間なのだろうか」
という自責の念が生まれます。

そういう弱い部分を持ち合わせた私たち
ですが、自分の中心軸をしっかりと
定めることによって、正しい考え方や
行動をすることができるようになります。

中心軸を定める生き方とは、自分が神様から
命や役割を与えられた存在だと信じ、他人や
環境、自分自身を責め裁くのをやめ、今、
目の前の出来事に精進を込めて打ち込み、
目の前にいる人たちに心を込めて対応して
いく生き方です。

そういう姿勢を貫いていけば、いつの間にか
欲得から解放され、周囲の人々をも感化して
いく存在になるでしょう。


「ないものねだり」をすると、「顔も見たくない」関係になる

みなさん、こんにちは!

今日は、読んでいて思わずホットする

そして、笑ってしまうような読み物を見付けました。

人間力向上研修のキーワード「笑顔」「自己反省」にも

つながる一節を、是非 皆様にもご紹介させて

いただきたいと思います。




「ないものねだり」をすると、「顔も見たくない」関係になる


>
> 隣の芝生は青く見え、ないものねだりをしたくなる。
>
> 結婚して幸福そうにしている人を眺めながら、
>
> 独身の方々は「私も結婚して幸せになりたい」と思う。
>
> ところが結婚すればしたで、独身で気楽にやっている人を
>
> うらやましく思うようになる。
>
>
>
> 恋い焦がれて結婚した相手との関係も、いまはうんざり。
>
> そんな元気のない様子を心配してか、
>
> 「どうしたの。つらいことがあったの。悲しいことがあった
  の。
>
>  でも、ぼくが一生そばについていてあげるから、だいじょうぶ  だよ」
>
> という、うっとおしいと思っている相手からの”やさしい”
 言葉。
>
> ああ、ままならぬ人生……という笑い話だってある。
>
>
>
> ジョークをもう一つ。
>
> 女房が誘拐された。
>
> 久しぶりの解放感に、せいせいした気分でいるところへ、
>
> 誘拐犯から「身代金を払え」という要求。
>
> 「そんな金払えるか」と突っぱねると、犯人は怒って、
>
> 「金を払わねえつもりなら、あんたの人質を解放するぞ」。
>
>  ああ、悩ましい人生。
>
>
>
> 何の統計であったか忘れたが、所帯を持つ日本人の半数以上が
>
> 離婚願望を抱き、もし生まれ変わったら、
>
> いまの連れ添いとは結婚はしないだろうと考えているのだ
 そうだ。
>
> しかし、なぜ結婚生活を「ああ、むなしい」と感じて
 しまうのか。
>
>
>
> その理由は……せっかく結婚できたのに、結婚してからも、
>
> 「隣の芝生は青く見え、ないものねだりをしている」から
 いけない。
>
>
>
> 五十パーセントでいいではないですか。
>
> 相手に五十パーセント満足できれば、
>
> 「それで十分に幸せだ」と考えること。
>
> それ以上のものを求めるから、

 隣の芝生が青く見えてくる。
>
>
>
> よその夫婦の笑顔を見てうらやましがるのなら、
>
> まず自分が、笑顔で相手と接するべきなのだ。
>
> たったそれだけで古びた結婚生活が変わる。
>
> これは私が保証する。
>
>
> --------------------
> 『笑うとなぜいいか?』
> ISBN978-4-86081-536-3
> 900円+税
> 著:斎藤茂太
> 版:新講社
>

吐く息は感謝でありますように

みなさん、こんにちは!

昨日は、埼玉県のある社会福祉法人で

人間力向上研修の第4回目を開催しました。

4回目のテーマは、「報恩感謝のこころ」です。

受講生の皆さんと一緒に「感謝のこころ」

について深く考えてみました。

そして

「ありがとう」の言葉のもつ意味そして

「言葉の力」について、お伝えさせていただきました。

今日は、「感謝のこころ」に関して雑誌「致知」

で見つけた一節を、皆様にもご紹介させて

頂きます。


『A子さんは若い身でがんになった。
辛い闘病生活。

その中で、病気を治すには体の治療だけでなく
心も治さなければ、と思い立つ。

そして手にした『致知』

中でも横田管長の連載に惹きつけられた。

「坐禅の要領は、ほんの一時でも過ぎたことは気にしない、
 これから起こることも気にしない、この二つ」

ともすれば手術で失った体の一部を煩い、
これからの不安にとらわれがちなA子さん。

そんな時、横田管長のこの簡潔な言葉に出逢い、
いま現在をしっかり生きよう、
こうして生きていることに感謝しよう、
と思い直すことができたという。

「自分はお坊様のようにお寺では修行はできないが
 病気とともに日常生活の中で生きている感謝、
 生かされている感謝を学ぶために、自分なりの修行をしたい」

という手紙を書き送ってきた。

横田管長は
「いま置かれている状況の中で、日常の生活の中で、
 感謝をもって生きることこそ最大の修行です」
と返事した。(中略)

「この病を得なければ、私は心や人間、自分を高めようと
 読書や勉強をすることはなかったでしょう。
 悪いと思われても、そのかげにはよいことも隠されている
 のです。
 この間協会の前を通りかかったら、

【天の父よ、どんな不幸を吸っても吐く息は感謝で
   ありますように】

という看板を見つけ、心に刻みました。
病気で苦しくても、いま私は生きています。
それがすべての答えだと思います」

それがA子さんの最後の手紙となった。
身内の方から亡くなったと横田管長が知らされ
たのは、それから間もなくだった。

大きな試練の中で『致知』に出逢い、師を見つけ、
辛い日々を精いっぱい生きた人の人生は、
腹中に書を持つことの大切さを私たちに教えてくれている』

いかがだったでしょうか。

当たり前ではない、日々の積み重ねに、感謝を

忘れずに生きていきたい、と思った瞬間でした。

皆様は、どのように感じられたでしょうか。

凶運な「あげる族」と強運な「いただく族」


みなさん、こんにちは!!

みなさんも聞かれたことがあるかと

思いますが、だれにでもできる

「運の引き寄せ方」。

われら坂本光司研究室と

交流のある人を大切する企業

「ウェルストン社」

さんのコラムに、興味深い一節が

ありましたので

ご紹介させていただきます。


以下に引用させていただきます。




凶運な「あげる族」と強運な「いただく族」
>
>
> さてもう一つ語尾についてお話をさせて頂こう。
>
> 実は語尾が「あげる」で終わる部族と「いただく」で終わる部族がいる。
>
>
>
> 片や
>
> 「手伝ってあげた」
>
> 「子育てをしてあげている」
>
> 「働いてあげている」という
>
> 「語尾族、心的態度族」の「あげる族」。
>
>
>
> そしてもう片方は
>
> 「手伝わせて頂いた」
>
> 「子育てさせて頂いている」
>
> 「働かせて頂いている」という
>
> 「語尾族、心的態度族」の「いただく族」だ。
>
>
>
>
>
> 「○○してあげた」という前者の「語尾族」は、何を行っても楽しくない、
>
> そして大きな成果も上げることはできない。
>
> その理由は「あげる族」はどんどん運が悪くなり、
>
> 「いただく族」はどんどん運が良くなり、
>
> やることなすことうまくいくからだ。
>
>
>
>
>
> 冒頭でもお話させて頂いたとおり、人生の98%は「運」である。
>
> だから運が悪い人間の人生はどうにもならない。
>
> やることなすことうまくいかないのである。
>
>
>
> 語尾が「あげる族」は、常に
>
> 「○○してあげる」
>
> 「○○してあげている」
>
> と言葉を吐き、実は「運」も「あげてばかり」で運気が下がり、
>
> 逆に「いただく族」は、
>
> 「○○させていただく」
>
> 「○○させていただいている」
>
> と言葉を吐き、運も「いただいてばかり」で運気が上がり続ける。
>
>
> (中略)
>
>
> ここで少しきになったことをお話させて頂きたい。
>
> 「わかっちゃいるけど・・・」とか、
>
> 「ついつい口から出ちゃうんだよね」とか、
>
> 「それを変えるのが難しい」と考え、
>
> 口にしている人はいないだろうか。
>
>
>
>
>
> まずツベコベ考えず、ツベコベ言わず、素直に言葉の語尾を変えることだ。
>
> 「えっ!!言葉!?」
>
> 「しかも・・言葉の語尾を変えるだけで!!」
>
> 「運が良くなり・・人生がどんどん好転していく!?」
>
> 「人生簡単じゃん!!」
>
> こう考え、口にしさえすればよいことなのだ。
>
>
>
> ----------
> 『言葉相』
> ISBN978-4-7745-1481-9
> 1500円+税
> 著:千葉修司
> 版:現代書林
>
>

「生きるということは一度しかない」

みなさん、こんにちは!

今年も、もうすぐ父の日ですね。

父の日というと、必ず思い出すのが
下記の一節です。

普段、なかなか気恥ずかしくて言いづらい
「ありがとう」の気持ちを伝えましょう。


そこで本日は、父の日にちなんで、
父親としての生きざまを見事に示した
ある人物に光を当てます。


奥さんと2人のお子さんに捧げた
命の絶唱――。


人間の感性を目覚めさせる能力開発訓練を手掛け、
プロテニスプレーヤーの松岡修造さんや
大戸屋HD会長の三森久実さんら、
これまでに1万8千人もの各界のリーダーを導いてきた
行徳哲男氏が語ります。


┌───────今日の注目の人─────────┐



  「生きるということは一度しかない。
   リハーサルなんかありはしない。
   たった一度だけである」
   

   行徳哲男(日本BE研究所所長)


   ※『致知』1986年7月号
   特集「なぜ燃え続けるのか」より



└───────────────────────┘


人の出会いも一期一会であり、

今を完全に燃焼し

尽くした時、
人間には希望や夢や野望やロマンが

生まれてくるのである。


私にこんなすさまじい教えを
教えてくれた1人の若者がいた。


富山県の砺波(となみ)という町で、
ガンで亡くなった井村和清さんである。

 
彼は医師であったが、
右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。
しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。


そして昭和54年1月、亡くなったのである。
享年31歳であった。


彼は医師であったから、自分の病状をよく知っていた。
だから彼には明日はなかった。


その彼が遺書を残している。
その遺書は『ありがとう、みなさん』と題されている。


彼は2人の子供に
「心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい」と書き、


「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。
 私はあと、いくらもお前たちのそばにいてあげること
 ができない。
 だから、お前たちが倒れても手を貸してあげることが
 できない。

 お前たちは倒れても倒れても自分の力で立ち上がるんだ。
 お前たちがいつまでも、いつまでも、幸せでありますように。

 雪の降る夜に父より」


そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。


「ようやくパパと言えるように
 なった娘と、まだお腹にいる
 ふたりめの子供のことを思うとき、
 胸が砕けそうになります。

 這ってでももう1度と思うのです。
 しかし、これは私の力では、
 どうすることもできない。

 肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、
 私の背中は一瞬凍りました。

 その転移巣はひとつやふたつではないのです。
 レントゲン室を出るとき、私は決心していました。

 歩けるところまで歩いていこう。

 その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、
 私は不思議な光景を見ていました。

 世の中がとても明るいのです。
 スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。
 走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いて
 みえるのです。

 アパートへ戻ってみた妻もまた、
 手をあわせたいほど尊くみえました」


「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ私のために
 参拝してくれていることを知りました。

 友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、
 長い道程を担いできてくれました。

『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。
 俺はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、
 おまえは笑うかもしれないが、これを担いできた』

 彼はそう言って、1斗(18リットル)以上もありそうな
 量の水を置いてゆきました。

 また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、
 何も分からぬ娘までが、私の背中をさすりに来て
 くれるのです。

 みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている。
 ありがたいことだと感謝せずにはいられません。
 
 皆さん、どうもありがとう。

 這ってでももう1度戻って、
 残してきた仕事をしたいと願う気持ちは強いのですが、
 咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血液を見て
 いますと、
 もはやこれまでか、との心境にもなります。
 どうも、ありがとう。」


 日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。
 ここまでくれば、いつ机に向かうことができなくなるかも
 しれない。


とにかく『あとがき』を書くことにした。


「頼みがあります。
 もし私が死にましたら、残るふたりの子供たちを、
 どうかよろしくお願い致します。
 
 私が自分の命の限界を知ったとき、
 私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。

 そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が
 欲しいと思ったのです。
 
 それは希望というよりは、
 むしろ祈りのようなものでした。

 祈りは通じ、ふたりめの子供が
 妻の胎内に宿ったのです。
 
 妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、
 私はどうしても、妻と飛鳥を、母ひとり子ひとりに
 したくなかったのです。

 3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、
 生きぬいてゆける。
 
 妻がもし艱難に出逢うことがあっても、
 子供たちふたりが心を合わせれば、
 細い体の妻をきっと助けてくれる。
 そう信じています」


そして、彼の死後、
「誰よりも悲しむであろう父母を慰めてやって下さい」と
 頼み、


「ありがとう、みなさん。
 世の中で死ぬまえにこれだけ言いたいことを言い、
 それを聞いてもらえる人は滅多にいません。
 
 その点、私は幸せです。
 ありがとう、みなさん。

 人の心はいいものですね。

 思いやりと思いやり。

 それらが重なりあう波間に
 、
 私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。

 幸せです。

 ありがとう、みなさん、

 ほんとうに、ありがとう」


1人の若者が生きることの大事さを

教えてくれた生の記録である。


彼は最後の最後まで、

人間万歳を歌いあげたのである。


最後の最後まで「ありがとう」をいい続けたのである。


生きるということは1度しかない。
リハーサルなんかありはしない。
たった1度だけである。


どうか、この「生きる」ことを大事に

大事に生き抜いていただきたい。

「当たり前などひとつのもない」

みなさん、こんにちは!

お陰様で、いまや、私のライフワークと

なった「人間力向上研修」。講師として

多くの施設にお邪魔しています。


この研修でいつもお伝えしている内容の一つに

「ありがとう」という言葉の意味、そして

この言葉のもつ「力」について、があります。


そして、皆さんに問いかけます。

「ありがとう」の反対語は?

・・・・・・

・・・・・・

それは「当たり前」です。

でも、よく考えてみると毎日毎日の

当たり前のように感じている日々の

出来事は、実は、全然当たり前などでは

なく、多くの偶然と 多くの方の協力の

積み重ねであり、

そして、自らの運命に支えられていることに

気づきます。

今日は、そんなことが書かれている、おなじみ

「致知」の一節をご紹介させて頂きたい

と思います。




> 鈴木 秀子
> (国際コミュニオン学会名誉会長)
>
> ※『致知』2016年7月号【最新号】
> ※連載「人生を照らす言葉」P108
>
> ───────────────────
>
> 私たちは日常生活の中で
> 目の前の損得や、
> 将来の不安、
> 恐れなどにばかり意識を向け、
> 一方で無事に日常生活を送っている、
> そのこと自体は「当たり前」と
> 見過ごしてしまいがちです。
>
> 百のうち九十九よいことがあっても、
> 一つ悪いことがあると、
> そちらに焦点を合わせてしまうのが
> 人間の性なのかもしれません。
>
> 「一日の王」とは、
> それとは反対に、
> 日常生活のよいことに
> 意識を向け続ける生き方です。
>
> 一つの方法として、
> 朝起きた時に
>
> 「きょう一日、
> よいものに焦点を当てよう」
>
> と決意します。
>
> 嫌な出来事が起きても
> 怒りや恐れの感情を
> 露わにすることをせず、
> 意識してよいことを
> 見つける訓練をするのです。
>
> 「きょうもまた命を与えられている」
>
> 「体が動く」
>
> 「家族が無事でいる」。
>
> ただ、それだけでも、
> どれほどありがたいことでしょうか。
>
> 通勤電車が動いている、
> 働く会社がある、
> 会社に行けば仲間が待っていてくれる、
> 毎月給料をいただける、
> 朝昼晩の食事を
> 美味しくいただくことができる……。
>
> 「一日の王」になることは、
> 目の前に当たり前のように
> 繰り広げられる出来事一つひとつに
> 丁寧に目を留めて、味わうことです。
> ───────────────────
>
> ※「当たり前」のことなど何もない。


> 日常のすべては

> 奇跡の連続だと教えられる

> お話ですね。
>
> 鈴木さんはこの連載は、

> ともすれば見落としがちな

> 大切な人生の真理を


> 教えられます。
>

「関を超える」

みなさん、こんにちは!

今日は、このブログでもおなじみの

致知出版社の月刊致知6月号より

とても感動的な記事をご紹介

いたします。



「人生はしばしば出合わねばならぬ関所を

 幾つも通り抜ける旅路である」

 とは安岡正篤師の言葉である。関所を越えることで

 人は人生に新しい世界を開いていくのである。
 
 禅家の修行では、厳しさが極点に達したところで、

 よく「関」の一語を浴びせかける、という。

 それを越えることで、禅者は無げ自在の境地に到達

 していく。在家も同じだろう。
 
 関は人間を磨く通過門である。

 本誌は、人生の関所を越えてきたたくさんの事例を

 紹介し続けてきた、といえる。

 なかでも、これほどの難関を越えてきた例は滅多に

 あるまい、と思われる人がいる。

 今年の新春大会にご登場いただき、1200人の

 聴衆の心を深い感動で包んだ福島智さん(東京大学教授)

 である。

 福島さんのお話を初めてうかがった時、肌がチリチリ痛む

 ような衝撃を覚えた。
 
 福島さんは3歳で右目を、9歳で左目を失明、全盲となった。

 生来が楽天的、と本人はおっしゃるが、視力を失っても

 音の世界がある、耳を使えば外の世界とつながることが

 できると考え、実際、音楽やスポーツや落語に夢中に

 なっていた、という。
 
 だが、さらなる過酷な試練が全盲の少年を襲う。

 14歳の頃から右耳が聞こえなくなり、18歳、

 高校2年の時に残された左耳も聞こえなくなって

 しまったのである。

・  ・  ・  ・  ・  ・

福島さんのお話を聞き、著書を読んで強く感じたことがある。

 福島さんには4つの特質がある、ということである。
 
一つは非常に明るいこと。

二つはユーモアがある。

三つは常に人に何かを与えようとしている。

そして四つは、自分が主語の人生を生きている


ということ。
 
そこには被害者意識は微塵もない。被害者意識で生きている

人は何ごとであれ人のせいにする。

人のせいにしている人に難関は越えられない。

人生は開けない。

この4つの資質こそ、福島さんをして、普通の人なら

絶望してしまいかねない人生の難関を越えさせた

秘訣であるように思うのである。

人間力向上研修@中野区



みなさん、こんにちは!

先週は、中野区介護保険課主催の

介護職員研修の講師で登壇させて

いただきました。

今回は、中野区で働く介護職員の方々

特に初任者向けコースなので、まだ

業務経験の少ない方約80人にお集まり

頂き、人間力向上研修初任者向けコースを

2時間でお伝えいたしました。

会場は、熱気にあふれご参加者の皆様は

とっても熱心にお聞きいただきました。

受講者の方々のアンケート内容に一部を

ご紹介させていただきたいと思います。

●あたり前のことをあたり前にできることの
大切さが改めて感じられました。
一人一人にあいさつすることを心がけて、
気持ちよく利用者様に過ごして頂けるように
していきたいと思います。
ありがとうございました。

●当たり前のことを当たり前にする、まずは

あいさつから変えていきたいと思います。
ありがとうございました。

●自分では挨拶をできている方だと勝手に自負して
 いましたが今日のお話しでよりよく職場内や利用者様たちに
 心地よくなっていただける挨拶を心がけたいと思うように
 なりました。

●職場において日々気付かされる毎日です。本日研修を
 受けることにより又自分自身の思いをしっかり受けとることが
 必要だと思い、明日から出来る事を取り組もうと思います。

●もう少し時間があると良かったと思います。たくさんの
 「気づき」を得ることができました。ありがとうございました。


等など、まだまだたくさんのコメントをいただきました。

アンケートをお書きいただく時間は、研修後のほんの
短い時間だったのに、これだけたくさんの方々が
これだけご意見を頂け、私の方は、感謝、そして
感動致しました。

皆さん、本当にありがとうございました。

そして、この研修を企画してくださった中野区の

職員に皆様にも感謝です。

本当にありがとうございました。



「感動の涙でこころを潤す」

みなさん、こんにちは!

今日はタイトルどおり感動で心がいっぱいになる

お話(実話)をご紹介したいと思います。



└──────────────────────────┘




「こどもの人格を重んじ、

 こどもの幸福をはかるとともに、

 母に感謝する」とされています。


いまから40年前、

15歳という若さで亡くなった

山田康文くん、通称やっちゃん。


重度の脳性マヒで、全身が不自由、

口も利けないやっちゃんが

作った一篇の詩があります。


その詩が教えてくれるものは実に重く、そして深い――。




        感動の涙で心を潤す
    「やっちゃんの詩」が教えてくれるもの

    
      ※『致知』2004年1月号
        特集「人生のテーマ」より
 

└──────────────────────────┘

忘れられない詩がある。


15歳の重度脳性マヒの少年が、
その短い生涯の中でたった一篇、
命を絞るようにして書き残した詩である。

 
  ごめんなさいね おかあさん

  ごめんなさいね おかあさん

  ぼくが生まれて ごめんなさい

  ぼくを背負う かあさんの

  細いうなじに ぼくはいう

  ぼくさえ 生まれなかったら

  かあさんの しらがもなかったろうね

  大きくなった このぼくを

  背負って歩く 悲しさも

 「かたわな子だね」とふりかえる

  つめたい視線に 泣くことも

  ぼくさえ 生まれなかったら

 
  ありがとう おかあさん

  ありがとう おかあさん

  おかあさんが いるかぎり

  ぼくは生きていくのです

  脳性マヒを 生きていく

  やさしさこそが 大切で

  悲しさこそが 美しい

  そんな 人の生き方を

  教えてくれた おかあさん

  おかあさん

  あなたがそこに いるかぎり
 

『致知』2002年9月号で
向野幾世さんが紹介した詩である。


作者は山田康文くん。


生まれた時から全身が不自由、口も利けない。
通称やっちゃん。


そのやっちゃんを養護学校の先生であった向野さんが抱きしめ、
彼の言葉を全身で聞く。


向野さんがいう言葉がやっちゃんのいいたい言葉だったら、
やっちゃんがウインクでイエスのサイン。
ノーの時は舌を出す。


気の遠くなるような作業を経て、
この詩は生まれた。


そしてその2か月後、少年は亡くなった。


自分を生み育ててくれた母親に報いたい。
その思いがこの少年の人生のテーマだったといえる。


短い生涯ながら少年は見事にそのテーマを生ききり、
それを一篇の詩に結晶させて、逝った。


生前、ひと言の言葉も発し得なかった少年が、
生涯を懸けてうたいあげた命の絶唱。


この詩が私たちに突きつけてくるものは重い。
 

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